ほんぶしんで教えている神様とは

○ 物極不滅は神完全 陰陽自存の大精神

全現象の根底をなすものは不滅の力である。不滅は完全の証拠である。完全は神である。

 この根元の神とは、単独の一神ではなく、陰陽一対の夫婦神である。世に根元一神論とか多神論とかあるが、これらはすべて一知半解である。この事は、万物がすべて陰陽和合の形式によってなり、単独のもので和の状態を示しているものは皆無なことによっても明らかである。和の現象なくして生じない。これは真理である。もし根元神が単独の存在であって、和の現象を手段として、神の完全機能を示したものであれば、必ず和でない一つのものから、別個の和のはたらきを示したものが、この現象界には横溢していなければならないのである。

 しかるに、この現象が世に皆無であることは、この現象界の和の形式こそ、根元神とは陰陽が各本体であり、これを反映したものが和の現象であることを立証するものである。なお自存とは、他に依存せぬ自力をいう。

 不滅という現象を一枚の紙の表の姿とすれば、その裏は自存と完全性である。この両面の理解が、神本質の理解である。

○ 宇宙の極は心のみ

 目に見えぬ完全なるこの力、これは宇宙精神の別名である。万物は、この二大精神によって始められたのである。

○神独創の世の起源

 神がこの世を創造したのは、全く神の完全な思いつきによるものである。その思いつきとは、神自身の状態を反映するものを、つくりたいということである。

○ 継続体系とり進む

 万物の歴史は、有情無情をおしなべて、自己の子孫を通じ、自己の再現と保存を繰り返しつつ進んで来た。これを継続体系という。

○ 陰陽電気の力業

 この継続体系のさまは、すべて陰陽二神、それぞれの、牽引・吸引の協力活動を、原動力とするものである。

○ 真の自由は現実に

 真の自由とは、神の自力自在の状態をいう。神は現実いっさいの持ち主であり、創り主である。

○ 根元自在の二神のみ

 人間各自が自由を求めるのは、この神の状態を、本性的に真似たがるのである。あたかも幼児が、大人の真似をしたがるようなものである。しかし人間には現実に生あり死あり、また瞬間先は闇である。つまり真の自由は無いのである。

○ 神はすべての因なりて

 この世がこの二神で始まり、またわれらが常に 「ままならぬ世、ままならぬ身」 の状態であることは、すべて何一つ各自のものでない証拠である。すなわち原因いっさいは神にあって、神は常に原因界に住むのである。

○ われらの住居は結果境

 われわれが感じる、さまざまな出来事とは、すべてこの生命という肉体が原因となって生じる知覚反応である。ゆえにわれわれは、常にこの結果という反応界に住居するのである。

○ 神人それぞれ本質は 能動受動の電気にて

 本質とは、そのもの自体が、何によってできているか、ということである。

物質の極は電気である。この不滅の電気が神の本質である。したがってそこから発した人間も、同じく電気である。しかしこの関係は、火打石と火打石から発する火花との関係のようなものである。火花は火打石より生じるが、火打石と同様ではない。これが能動受動の電質の差であり、神と人との本質の差である。

○常にわれらは依存した

 依存とは、他の力を受けて存在することである。したがって、神という能動電力によって支えられているわれら人間は、ことごとく依存者である。

○ 力と力の対心形

 この世の実態ことごとくは、能動力と受動力との対心現象である。世に、唯心論とか、さまざまの論説はあるが、これは神と人との本質を、知らざるために生じた偏見である。

○ 秩序は完全組織なり

 天体の運行、四季の循環、各物体の運動様式、また人間をはじめ諸生命の生理現象等々・・・・・、これすべて整然と秩序づけられた天然の組織体である。

○ 万象すべては神の意志

 この天然秩序・自然法則は、人間の知恵とか意志とか工夫とは全く無関係である。ことごとく神の意志の発現である。

○ 進化の歴史の指すところ

 万物の進化や、特に人間歴史の推移などは、現実という神意のうながしを受けて、常に向上開発を目ざしているのである。

私達の住むこの地球は、水の惑星ともいわれておりますように人類はもとより、生物が生存するに相応しい豊かな水に恵まれております。遥か山々には、青々とした樹木が生い茂り、それぞれの枝には、色とりどりの実をつけています。新鮮な野菜やみずみずしい果物が出来るのも、根から水気を十分吸収しているお陰であります。

「NHKよる科学の時間」、もし水がなければ、生命は存在しない。又生命がなければ、又水も存在しないということです。水はすべての生物の住みやすい環境の維持に役立っているのです。こうした生命の必然性がなければ水はすぐに、地球上から消え、地球は金星や火星のように乾いた星となってしまうでしょう。

何といっても、生命は、31億5千万年間地球に存在し続けてきた実々であります。

此の物質宇宙この自然界も科学によって始まりのある事を裏付けられた。

因って、物質の構成が、神の完全なる独創性によって、ある時期に思いつかれ完全熟慮をもって、始められたことを意味する。物質の分解、分析、化合等が可能なることは、秩序があればこそである。

ゆえに物質の遡行探求が可能であることは、この宇宙の始まりと、創造主の全知全能を意味し、したがって神に確たる目的あって始められた、知的現象なることを明瞭に物語るものである。

ある科学の権威者達は、この物極に対して、物極は・・・・ただ目にみえざる何ものかの完全なる力というよりない。しかもこれは、不滅の存在である。物質構成は単なる偶然事ではない。これは充分なる熟慮の結果始められたものとみるべきである。

ニュートンの晩年の言葉 「神の偉大なる科学に比べたら、自分たちの探求し得た科学などは、大海に対する浜の砂粒のようなものだ・・・・・」 と

また相対性原理の発見者として有名なアインシュタインの 「宇宙に意志あり 意志の発動者あり、それは非人間、カミという外はない・・・・・」

また湯川博士の 「科学と宗教は、究極に一体のものであろう」 等々はこの事を示している。

しかしながら、これらはあくまでも、人間側からの発言であって、神自身の発言ではなかったのである。

神はこの道の教祖を通じて初めて

 「この世は神の世界であり

          神の思わくあること」

したがって、すべて人間は神の心に添うて歩むべきことを、打ち出されたのである。

以来、この道は 「ひながた、かりや、ほんぶしん」 と教祖の御精神を神への精神として真実の宗教精神として苦難と栄光の道を歩みつつ今日に至ったのである。

つまり現象という構造と作用の根底に横たわる陰・陽の根元力については、模索の旅を続けているのである。

要するに物質の根元は、陰・陽不滅の力、すなわち二種の電体である。そして、その本体は、二つの宇宙完全精神力であり、物質とは、この協力合作の活動態なのである。天理教祖が、「・・・この世の始まりとは、天にも地にも何一つなかった。ただ月日(つきひ)御両神(ごりょうじん)のみ、おられただけである。それは今、目に見えるような月日様ではなかった・・・」と。

この「月日」とは、物質現出前の不滅の存在たる陰・陽二つの根元力を教えた言葉であった。このことは、

これまでも月日をしらんものはない

なれど ほんもと しりたものはない

月日より ないにんげんやないせかい

はじめかけたるおやであるぞや

とも示されてある。

前章より述べてきたように、物質根元の正体は、陰陽二種の不滅の力(陰陽の電体)であって、すなわちこれは完全宇宙精神力である。

不滅とは、存在条件の完備する力をもつことを意味する。

つまり他の支えを必要としない自力、自存力であって、これは善きことのすべての条件と機能を融合的に持つのである。すなわち、不滅の力=完全力=自在力=神である。したがって、物質現象の基礎、陰陽の根元力は、陰陽の自在力であるから、自存者とは、斯道教理で 「月日」 と表現される陰・陽二神のみである。

広大無辺の宇宙の中にあって、生命の宿る水の惑星である地球ーー。

この地球は、問題と解答がいっぱい詰まった宝石箱のようなものです。

だからこそ、私たち人類の進歩があるのです。

宇宙には、明らかに始まりがある。したがって、万物にも、われわれにもーー。

いったいこれらを創り始めたものは、何者でしょうかーー。

それは、物質を構成している不滅の陰・陽荷電であることを、現代の科学は究明しました。

しかし不思議にもすでに今より一世紀以前、この世の元始まりを明らかに説いた人があった。それは世にいう天理教祖中山みき様であります。

天保九年(西暦1838年)突然天の啓示を受ける身となった。それより生涯を通じ、その天の啓示は続いた。(よわい)九十歳をもって、終りましたが、この世は神おもわく一条の世であり、そのために神が創めたもうたものであること。この世界には、元々月日(陰・陽神)二神よりほかはなく、その月日も今、人間の目に見えるような月日ではなかったこと。

それどころか、「天に光るものは何もなかった。ただ月日二神のみおいでになった」と。

つまり目に見えない陰・陽不滅一対神こそが宇宙の元であり、そしてこの不滅一対神の目的によって創った世界であることを道破したのであります。

そして神の目的の一員として、人間にのみ理性を与えられたのであります。

つまり人間思案をいっさい混ぜない、神意そのままを打ち出す(にん)は、神意指定の人であることはいうまでもありません。

この神意指定の神おもわくを打ち出す人を天啓者というのであります。

したがって、天啓者という(もの)は、全世界に前例がない。

勿論本教の理に基づいて、人間の本質より解明するものであります。

それは、私たちの生命が、自力としては常に皆無であったという事実であります。

なぜなら、私たちが知らずに、この世に生を受けた事によっても、明らかでありますように、自分の死もまた、どんな状態で迎えねばならないかということも、実際はなってみるまでわからないのであります。

またこの肉体が、私たち各自の思うままになるようでありますが、一度(ひとたび)この肉体に望みもしない欠陥ができた場合、自分の体と、信じながらも、自分で元どおりにできない。元来、この肉体そのものが、私たちの知らない根元一対電力のはたらきによってできていることが、なんといって自分のものでない証拠であります。

生もまた、死に至るまでの経路も推断しかできず、実際のことはわからないのであります。

したがって、各自の存在は、根元完全力(神)に全依存自我なのであります。

私たちの存在の有無は、単にこの意味に限られるものであります。

したがって、人間の心とは、陰陽二種の自存力であって、ただ味わう力にすぎないのである。味わう力とは、いわゆる知覚神経による思考、判断、感情、感覚などであって、これは人体の大脳皮質部((かい)白質(はくしつ))において、行われるものである。

すなわち、大脳皮質部の脳神経による自動作用によって活動し始めるのである。

大脳皮質部の活動によって、各自の霊は自存電気によって刺激され、一種のエネルギー的依存電気を生じて活動し始め、この活動状態をさして、各自の心というのであると、このようにみろく様は、仰せられました。

人間の生は、神に全依存霊、即受動霊、したがって、人力は無であり、死が正体という事です。

みろく様かりもの(あかし)のお歌に

 我とは己が心だけ 身体は神が 貸したもの 

生あり死あるが そのあかし ササそのあかし

身に持つすべて 神のもの 死なば借り手を 遷すなり

味わい消ゆるが そのあかし ササそのあかし

このようにお諭しくだされております。