人生の目的=生かされている理由(わけ)

「宇宙本体不滅の原理」は、天啓道たる、このほんぶしんにおいて、初めて明らかにされたものである。

「天啓」とは、一口に言うと神が特定の人を機械のように使って神目的の説明をすることをいう。「啓示」というものは、神実在を(ほの)かに知らすにとどまるもので、その場のみのことである。

天啓とは、その時ではなく、死ぬまでつづく天の啓示連続であり、その自覚内容は、神おもわく一条である。これは史上類例がない。(天の使命)

 ほんぶしんで教える教理は、「天定の三軌道」を始めとし、いかな項目も、すべてこの原理に根をおいたものばかりである。

「天定の三軌道」とは、夫婦の道(夫唱婦随)、親子の道、それぞれの道。

この原理の解明がなされてないかぎり、神仏という言葉を用い、世の元であるとか、創世だとか言ってみても、しょせんその話は、その人の想像論や、思いつきにすぎないことになる。

 なぜならば、世の元の延長が現在の自然界であるから、現在の秩序の因が明らかにされないということは、世の元の秩序の因も明らかでないということになるのである。また、いたるところで、つじつまの合わぬところも出てこよう。

みろく様御作 織りうたに

人生の 目的なにと しりたさに

いまなお多き 人のさまよい

その謎は つくりし神と つくられし

人とのつながり しらず解かれぬ

人生の 目的こそは 神いだく

そのおもわくや 神ありて人

万物を つくりし神こそ (あるじ)なり

ひとは客ゆえ 生死みるなり

ほんぶしん はじめてしめす (ぬし)の意義

神が根にして われら客人(まろうど)

ひとはみな しらずこの世に おとずれて

いとま()ぐるは 客なればこそ

と、数々示されております。

 人間とは、自然界に包まれ、自然の力によって生かされているものである。見ることにしろ、聞くことにしろ、嗅ぐことにしろ、感じることにしろ、食べることにしろ、われわれのこの五感の味わいは、われわれ自身の意志にもとづくものは何一つなく、自然の力がもたらす刺激に反応するものである。

 人間各自の存在は、世のはじまりから、自然界になにもかも依存して、自分の力はまったく皆無であります。この事は、何人(なんびと)も否定できぬ現実である。

 されば、この自然界を形づくっている根本の力、その正体を知らずして、人間各自の実体はわからず、まして、われわれ人間は、なんのために生きているのかという、人生の目的の正解は得られない。

 たとえば、ここに一本の徳利(とっくり)がある。この徳利自身には、自分はなんのために作られているのかーー自分で、その答を引き出すことは出来ない。したがって、中に何を入れるのが、自分にとって正しいことなのかーーということは不明である。これは、この徳利をつくった人に説明してもらうことによって、わかることであって、これにより、この中に充たすべきものは、油でもなければ、醤油でもなく、水でも湯でもない。

それは酒であることが理解される。

 それと同じく、人間と名づけた、この容れものの中に充たすべき理想精神を説く以上は、まずこの人間を存在させ、これをはぐくんでいる自然の力に対する解明が必要である。

 この解明が、みろく様の説かれた 「宇宙本体不滅の原理」であります。

 

 

 

 

 

 

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